幼少期:魂のままに生きていた頃の話

都会育ちの両親に生れながら、滋賀県大津市の田舎で育ちました。 山で筍を掘ったり野いちごを摘んで食べたり田んぼでザリガニを捕まえたりと自然の中で思う存分遊んで暮らしていました。

一方でものを作ることが大好きで家の中ではいつも何かしら作っていたようです。 また、田舎を知らない両親へ身近な自然を伝える役割があったように思います。

青年期:他人を生きていた頃の話

高校生になり進路を決めるにあたり、美術系への進学を希望していましたが、他人の意見に惑わされ、美術の世界に憧れを抱きつつ建築学科へ進学してしまいます。

案の定大学生活での建築学の学びに魅力を感じられずスキーに没頭します。それでも優等生ぶりを発揮し4年で大学を卒業。就職活動にも興味はなく、のんびりと一ヶ月バックパッカーでヨーロッパを回って帰ってきたら、同級生が次々に面接に繰り出していてびっくりし、就職誌をパッと開いたところに見つけた中堅住宅メーカーを選び、何のこだわりもなく就職を決めてしまいました。

ところがそこで配属になったのは分譲住宅部門でした。もの作りが好きな私にとって、住宅の大量生産と土地と図面だけで家の売買が成立する事実に大きな違和感を感じ5年で退職。一度目の人生の岐路に立ちます。

転換期:なんか違うと気づき始めた頃の話

そもそも建築ってなんだろう?住宅ってなんだろう?との問いに改めて立ち返った時、神楽坂建築塾に出会いました。そこで出会った全ての建築家が建築学に留まらず広く人生の哲学を携えていらっしゃることに感銘を受け、今の私の礎になっています。

建築塾主宰の故鈴木喜一氏からは近代建築スケッチの手法:必ず現場で感じて描き切る、ことを学びました。修了制作に描いた私の住まいのクロニクルと題した8枚の間取りイラストが評判を呼び、以降、時々、雑誌に間取りイラストなどを寄稿する機会をいただきました。▶︎クロニクル gallery page

そんな中、美術への憧れを捨て切れずに美大の社会人枠を受験するも不合格。諦めて建築でやっていこうと腹をくくり見つけた地域の工務店へ再就職しました。ほどなくして長女を出産。育児のかたわらフルタイムで務めたその工務店は、木造伝統工法で設計施工する会社でしたので、大工の棟梁をはじめ、左官職人、建具職人、畳職人、瓦職人など日本の伝統技法を持ちつつ独自の世界観がそれぞれにある職人さんたちと仕事を共にできたことは人生の宝です。

ところが在職7年目に工務店が倒産。転職先の設計事務所勤務が3年を過ぎた頃の2011年6月、母が脳梗塞で倒れ、先の見えない介護をする父のサポートのためにバッサリと建築職を辞めました。突然の専業主婦。二度目の人生の岐路。

神楽坂建築塾
https://ja-jp.facebook.com/kagurazakakenchikujuku/

開花期:自分のほんとを思い出し始めた頃から今の話

頭の片隅にあった捨て切れない美術への思いから何か試してみようと偶然に臨床美術と出会います。仕事のかたわら趣味で携わっていたプレイバックシアターの全肯定感や、長女の育児の役に立てばと参加していた美術鑑賞のワークショップの考え方が臨床美術の本髄と繋がることに気がつきます。

その頃から人生のパズルがピタリピタリとはまるような出会いが重なります。まるで自動操縦のような流れで、近隣の幼稚園での造形教室主宰、都 内の保育園での美術講師、地域のコミュニティで美術を通したワークショップ企画など、 美術が仕事になるようになります。同じ時期に10年間押し入れにしまい込んでいた私の住まいの間取りイラストを公開することを思いつき、実行しました。

以降、ライフワーク的に古民家や旅先で出会った部屋などの間取りイラストを描きつづけながら、美術造形活動をツールにした場づくりをメインに活動中です。自身の活動を通して人の在り方を問い続けています。

プレイバックシアター
http://www.playback-az.com/playbacktheatre/index.html

※「臨床美術」及び「臨床美術士」は、日本における(株)芸術造形研究所の登録商標です。